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老人性認知症疾患専門病院

2012/5/1
病院短信

『赤坂忠義君を偲ぶ』

私が2月に当院に入職するのと入れ違いに赤坂君は急死し、一緒に働くことができなくなり極めて残念です。ここに、かつて一緒に働いた伊勢の病院での1年間を、特に診療に限って紹介し赤坂君を偲ぶよすがとします。
東大の私達のクラスはインターン闘争、医師国家試験ボイコットのため2年遅れてようやく医師になった。私は都立病院の泌尿器科で1年働いてから、赤坂、大川両君を頼って伊勢の亀谷病院(現伊勢慶応分院)に転がり込んだ。外科部長は10年位先輩の心臓外科医で手をとり足をとり指導するタイプではなく自由放任だったので、私達は外科医としての向上心から種々挑戦して行くことになった。外科医として1年先輩の両君がイニシアチブを取ることが多かったが、そこでの臨床経験はその後の私の長い外科医の原点となった。
肝破裂の患者は開腹すると血液水平面が見る間に上昇し、出血点を確認する間もなく落命するのが常である。肝静脈の損傷によるもので、肝静脈からの出血を阻止する研究論文を最新のアメリカの外科雑誌に探し当て、数頭のイヌで実験したがうまく行かなかった。しかし、こんな実験が田舎の病院で可能であったこと自体驚きである。その後も肝破裂の症例が続いたが、遂に若い女性を肝右葉切除により救命することに成功した。当時、大病院でもそのような実績は稀であったであろう。
胃幽門側切除術ではほとんどの施設でビルロートU法(胃空腸吻合)が採用されていた。中山恒明教授が膵頭固定術を主唱し、ビルロートT法(胃十二指腸吻合)の成績向上が期待されるや、早速私達もこれを導入し症例は少ないが良好な成績を得ていた。胃全摘除術は癌研の梶谷博士を除けば成績は安定せず、某大学の大物教授などは食道空腸吻合直後から腸液が洩れ出す始末で、professorならぬperfossor(<perforate穿孔する)と陰で呼ばれていたと言う。私達は梶谷博士の手順に沿って膵脾合併胃全摘除術に挑戦したが、残念ながら縫合不全を来たし、中心静脈栄養法の開発以前のことでもあり、数ヵ月後に衰弱死した。
血液透析は健康保険で採用されておらず、三重県では私達のチームだけがコルフ型のツインコイルを使って、農薬、パーマ液の急性中毒の患者さんを治療していた。ある時、三重県立医大胸部外科の医局長が頭を低くして胸部大動脈瘤術後の急性腎不全患者の血液透析を依頼してきたことがあった。
海水浴で溺れて心肺停止になった学生が鳥羽から救急搬送されて来た。気管内挿管の上、開胸心マッサージを小1時間も続けてようやく心臓が動き出した。その後、不整脈に対してアミサリンを点滴して心電図波形も正常化し退院した。当時、札幌医大の心移植ドナーであった若者が溺水後十分な蘇生処置を受けた後に心臓を摘出されたかがマスコミを賑わしていた。どう洩れ聞いたのか、週刊誌“女性自身”が私達の症例を記事にした。
ある夜、電話で呼び出されて手術室に行くと、大川君が「急性虫垂炎だ。自分で手術をするから、見ていてくれ」と。高枕をして手術台に仰向けになり自らMcBurneyの部位に局所麻酔をした。看護婦が鏡で局所を映し、もう一人は手術の助手をし、手術は腹膜切開までは順調に進行した。腸用ピンセットで虫垂を掴み出す段階になって、鏡では腹腔内を正面視できず、局所麻酔下で腸は飛び出し、そうこうしている内に前投薬の麻薬、極度の緊張のために脳貧血をきたし、意識は混濁し手術は中断した。そこで、私が手洗いして手術を終了した。大川君と私が属していたTUSAC(東大スキー山岳部)には、冬山テントの中で虫垂炎になった医学生が石油コンロで鋏などを火炎消毒し自ら虫垂を切除したと言い伝えがあったが、勇気ある挑戦により迷信であることが分かった瞬間である。
紙幅も尽きたのでこの辺りで筆を置くが、伊勢での思い出は40数年も前のことながら糸を辿れば次から次へと湧出する、とてつもなく密度の濃い1年間だったと言える。現在の医療水準からみれば挑戦でも何でもないと思えるだろうし、成功したものも失敗したものもある。しかし、善くも悪くも、未熟で若輩な医師が自らの責任においてあのように自由奔放に挑戦できる“時間と空間”を現在の医療制度の中に見つけ出すことは出来まい。

 

2病棟主治医 笠原 小五郎